広島市徳応寺 住職 藤丹青
(茉莉花vol.25/1996年秋号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
虫浄土ふたりの吾子は
ねまりけり 丹詠
父の俳句です。幼い頃から、私は俳句を作っている父の姿を見て育ってきました。今は、私の子どもが一緒に俳句を作り、月日のたつことの早さをしみじみと感じています。
最近、昔の子どもはこんなことはなかったと、ふっと思う時があります。私の子ども時代と、今の子どもの姿を比べてみますと、子どもを取り巻く環境は大きく変化し、いじめ、塾通いなど、子どものゆとりの心が失われてきていることに驚かされます。子どもは親の背中を見て育つと言われています。今、親として自らが問われているのではないであろうかと、痛切に感じております。
このような時代なればこそ、ゆとりの心を大切にしなくてはならないのではないでしょうか。
しかし、自らを振り返ってみますと、自分のものさしでつい子どもの善し悪しをはかっています。そのものさしは、自分の気分によって変わってしまう目盛りであり、確かに見たといっても、確かに聞いたといっても、自分の都合で見たり、聞いたりしているのであります。結局は、煩悩のなかで善し悪しを言っているのであって、とらわれの心から離れられないのであります。
念仏は、自我崩壊の音と先哲が申されました。南無阿弥陀仏の六字の音は、子どもを見る私のものさしのとらわれの心が、崩れている音でもあります。親が親らしく立ち返っていく世界でもあります。親が親らしくとは、当たり前のことでありますが、その当たり前のことがなかなかできにくく、また、当たり前のことに感動しなくなっているのが、私たち大人ではないでしょうか。日々、自分を見失っている私が、私に出遇っていく世界が南無阿弥陀仏です。そうしたゆとりある心を大切にしたいものです。
子どもと一緒に俳句を作っていますと、子どもから学ぶことがたくさんあります。以前、子どもが
お月さん家までずっと
ついてくる 誓子
という俳句を作りました。当たり前のことに驚く、子どもの心の大切さを感じました。子育ての理想と現実のなかで試行錯誤し、子どもの成長とともに、親として育てられていると気づかされる時、よろこびを感じるものです。そして、子どもに対し、「ありがとう」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
お念仏の、「ありがとう」と立ち返らせていただく世界に出遇えていることをよろこぶとともに、「ありがとう」と響き合う環境のなかの親子でありたいと願っています。
親に子に「ありがとう」と言えるよろこびを大切にしたいものです。
久しぶりに、懐かしいふるさとを訪れてみました。山門を入ると、白萩が風に揺れ、芙蓉の淡い色が日に揺れていました。