あけまして南無阿弥陀仏

本願寺勧学 稲城選恵

(茉莉花vol.22/1996年新年号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 私の教え子にアメリカから来た留学生のH君がいます。アメリ力在住の彼は、三世か四世であるからアメリカの思想風土の中で育てられています。その彼がある時、こんな質問をしました。
 「日本人はとても不可解です。というのは、お正月だけ『あけましておめでとう』といいます。念仏者は毎日が『おめでとう』ではないのですか」と。この彼の問いには考えさせられるものがあリました。

 禅家の言葉にも「日々これ好日」とあリ、毎日がめでたく、最高の生きがいのある日といいます。

 日ごろの私たちは、人生を自己中心のメガネを通し、幸不幸、善悪正邪の価値判断をしています。 自分の都合のよい場合は幸福であり、生きがいを見出し、また、周囲の人々も善意に受け取ることができます。しかし逆になると、一転してすべてを悪意に受け取ってしまいます。
 健康に自信をもっている人でも、交通事故に遭遇して寝たきりの不自由な身になると、怒りや腹立ち、ねたみ、ひがみという人間の本来もっている煩悩の本性が、噴水のごとくわき出てくるのです。
 また、相手が成功すると、ねたみ、ひがみ、逆に失敗すると痛快な心まで起こってくる。まことに恥ずべき存在というほかありません。

  親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらが(この私の)身にみちみちて、欲もおおく、いかり腹立ち、そねみねたむ心おおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず…」とおっしゃっています。 私たちは、この枠の中から生涯出ることは不可能のようです。それは人生を、自己中心のメガネをかけて見ているからなのです。

 さて、人間であることの喜び、生きているそのことの喜びは、誰にも等しく与えられています。しかし、生涯これを見出すことなく終ってしまう人が多いのは何故でしょう。
 少し考えてみれば、私たちが求めつかんだ喜びは、時が移れば、悲しみや苦しみに変わってゆくものがほとんどであることに気付きます。それを、いつまでも確かなものとして、つかんでいたいという私たちの考えが誤っています。

 親鸞聖人は私たちに、一生を通して変わらない喜びとは、念仏の法にあわせていただくほかはないと説いてくださいます。 この私は、念仏の法を受容する身体を、すでに親からいただいているのです。しかも、この法は、この私が存在するところは、いつでも、どこでも、自らが求めるに先立って与えられています。
 この喜びの発見こそ大切です。なぜなら、人生のいかなる逆境にあっても、おぼれることのない世界がそこに開かれるのですから。

 煩悩から、一歩たりとも離れることのない恥ずべき存在のそのままに、いかなる不幸や禍いにあおうとも、生死や禍福をこえた世界に生かされること。これこそが、人間のほんとうの生きる答えといえましょう。

 ここに「日々これ好日」という毎日が恵まれ、まためでたいともいわれる世界があるのではないで しょうか。

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