いのちに出遇う

報恩寺住職 高蔵浩亮

(茉莉花vol.21/1995年秋号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 私たちは、毎日、様々な人と出会っています。しかし、本当にその人に出会っているのでしょうか。最近、私はこのように考えています。人と出会っていても、本当は自分の都合にしか出会っていないのではないかと。

 「あの人は、いい人だ」とか「あいつは、悪いやつだ」とかと言っていても、突き詰めれば、自分にとって都合がいいか、悪いかであって、自分の都合しだいで相手を善者にしたり、悪者にしたりしているのではないか。結局、自分の都合にしか出会っていなかったのではないかと。

 そんなことに気づかせてくれたのは、私の父親と、「南無阿弥陀仏」でした。

 父は、今年二月に亡くなりました。六十七歳でした。「父親と息子はライバルだ」ということをよく耳にしますが、私の場合は、「力タキ」でした。 小言を言われ、いちいちそれに反発し、父が元気なころには父の親心さえ疎ましく思え、「おらにゃあ、ええのに」と思ったこともありました。 私が父に反発していたのは、私が勝手に理想の父親像を作り上げ、それを父に押しつけて、父と比べていたのです。

 『かけがえのない、いのち』といいますが、「かけがえのない」とはどういう意昧でしょうか。辞書で調べてみますと、「代わりがない」とあります。それは、交替することができない。同じものは他にはない、たった一つということ。だから、たった一つしかないものを、他と比べることは本当はできないはずです。

 ところが、人間の境界では、比べて判断し、少しでも有利な方、自分にとって都合のいい方を選んでしまいます。比べることが許されることもあるでしょうが、しかし、『いのち』を比べることはできないはずです。能力に差はあっても、それで『いのち』に優劣をつけることはできないのです。

 比べて、ひがんだリ、妬んだりしないで、自分の生まれてきた時代と場所で自分なりに精いっぱいに生きる。それが、『かけがえのない、いのち』を生きることではないでしょうか。

 父を亡くして、初めて父の『いのち』に出遇いました。

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