品正寺住職 水戸善乗
(茉莉花vol.16/1994年夏号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
今どきの幼児は夜中に目を覚ますと、キョロキョロとあたりを見回し、親の姿を眼で探し、確認して親の寝床へもぐりこむんだそうです。なんにも云わずに。窓ガラスを通して街灯の光が差し込みます、部屋の中にも明かりがあります。生まれたときから闇を知らないままに育っていくんだそうです。
そう云われてみると、私たちのこどもの頃は、夜は雨戸をしめて寝ていたように思います。いや、それよりずーっと前からそうだったんです。泥棒さんの心配ばかりでなく、文字通り雨が心配だったのです。
今と違って螢光灯はありません。壁スイッチもひもスイッチも非常用豆球もありません。天井からぶら下がった黒いソケットのスイッチを伸び上がって切られたらも、もう鼻をつままれてもわからない真っ暗闇です。おしっこにいくのにも這っていかなければ、家人の顔や腹を踏んづけかねない、そんな闇が夜を支配していたのです。
では、その頃のこどもは夜中に目を覚ますとどうしていたんでしょうか?
あたりを見回してみても何も見えません。不安になったこどもは小声で「オカーチャン、オカーチャン」と親を呼ぶのでした。こどもの声を耳にした母親は「起きたの?ここにいるよ、こっちへおいで」と、こどもに声をかけます。母親の声を聞いたらもう安心です。
そうです。闇の中で頼りになるのは声だったんですネ。
闇を知らずに育ち、「眼を開いてよく見なさい」と科学教育に育てられたこどもは、やがて、眼に見えないものは信用しない人間になっていくんだそうです。恐ろしいですねえ。科学文明の恩恵にどっぷりとつかっている中にこんな落し穴があったとは…
眼を開いてよく見えるのは外の世界。眼を閉じて、初めて見えて来るものがありはしませんでしょうか?
私さえ良ければ、今さえ良ければ、との思いに取り付かれている自分に気がつかない、それこそが心の闇なのでしょう。
心の闇を心の闇と知らされるとき、仏さまの大きなお慈悲が、ナンマンダブッと声になって私のところへ到り届いて、聞いて下さるのです。