親の名告(なの)り

西法寺 吉崎哲真

(茉莉花vol.14/1994年新年号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 わが家に娘が来(き)てくれました。
ハラハラ・ドキドキの十月十日(とつきとおか)、予定日通りの5月8日、娘の誕生です。
「ようこそ来てくださいました」と初めて抱かせてもらった時、 なんと言っていいのかわからない不思議な気持ちでした。

 さあ、名前を付けなければなりません。 もちろん、あれこれと考えて続けてはいたのですが、いよいよとなるとなかなか決断できないのです。 やっとの思いで「弥名子(みなこ)」と名付け、家族も賛成してくれたので出生届に行きました。
ところが受付で待っている間に「本当にこれでいいのか」と不安になり、 今日は届をやめようかとさえ思いました。 名前を付けることがこんなに大変だとは思いませんでした。

 もうひとつ、私は一ヶ月以上も「おとうさんだよ」とわが子に名告ることが出来ませんでした。
「おとうさん」という言葉は、どこでも誰の前でも口に出来るのです。
ところが、わが子の前では言えないのです。 なれていないからだろうかとも思いましたが、どうやらそうではないようです。

 「名付けること」と「名告(なの)ること」は親に成るということです。 私はこれまで親になる努力をしていないのですから、無意識のうちに責任の重さを感じ、ひるんでいたようです。

 阿弥陀仏は、自ら「南無阿弥陀仏」と名告(なの)り、 私たちをかけがえのない「ひとり子(ご)」として呼びたまい、迎える世界を「極楽浄土」と名付けられました。

 この名告りと名付けは、その一切の責任を引き受けるということなのです。
そしてそれは単なる言葉ではなく、 五劫思惟(ごこうしゆい)と永劫修行(ようごうしゅぎょう)の上に成りたっているのです。私の親に成って下さった名告りです。

 親に成るとは自他不二(じたふに)の心であり大慈悲心のお姿なのです。
 私は親に成る大変さと、成ることの出来ない自己と、親の有り難さを娘から賜りました。

※五劫思惟=長い長い間の思いめぐらし。

※永劫修行=永い永い間の修行。阿弥陀仏は、あらゆるものを救おうと願を起こし、それを成就するために、五劫が間思惟し、永劫が間修行された。

※自他不二=自他の区別なき絶対の平等。

※大慈悲心=仏が苦悩の衆生を平等に救済して、その苦を取り除き、これに楽を与えんと、慈しみ、憐れみたもう御心。

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