「座」ということ

広島青年僧侶春秋会前会長 専教寺 青木幹丸

(茉莉花vol.13/1993年秋号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 座席、座椅子、座布団……。
  座のつく言葉は、たくさんあります。もちろんわたしの坐るところ、それが座ですね。 ですが、たかだか坐るところと侮ってはいけない。
もっと広い意味でいえば、いろいろな社会でわたしが占める位置とか場所をあらわしますし、 ひいては、生命(いのち)の値打(ねう)ち、生き甲斐(がい)なんてところへもつながっていきます。

 阿弥陀様にも、座のお徳が説かれます。曇鸞大師(どんらんだいし)はこんなことをおっしゃっています。

「ある国土の菩薩さまがいよいよお悟りを開こうとなさる時に、草を敷きその上に坐っておられる。
それえではあまりにみすぼらしくて、 人びともお敬いする気持ちが起こらない。
そう見てとられた阿弥陀さまは、自分が成仏したあかつきには、 あらゆるものがいよいよ慕わしい心を抱けるだけのしかるべき蓮華の座を用意したいと願われました。」

 なるほど、仏さまには仏さまなりの座があるということですか。
  また逆に言えば、自分に付属する座についてあえて真っ先に誓われた仏さまは、 その立派な台座にふさわしい、生きとし生けるものすべてが頼みとし、まかせきるに足る仏に、 自らなろうと精進(しょうじん)されたとも窺(うかが)えます。
 さしずめ、人が座を作り、座が人を育てるというおもむきでしょうか。

 さて、とある本堂の光景、今日はご法座が勤まります。 ざっと見わたしてみますと、新しいお顔もポツポツとありますが、 まあだいたいなじみの同行さんには坐られる座に規則性があるようです。 そのあたりでないと、ないかしら落ち着けないということでしょう。
これが、その座にいつものお顔がなかったりしますと、ご病気かしらと心配になってきます。
また亡くなられた方の座がポッカリ空いてしまうと、 当分淋しいものですが、それもいつしか他の人で埋まっていきます。

 とにかく、お寺から届くご法座の案内も、お勤めの始まりを告げる喚鐘(かんしょう)も、 「あなたの座を空けて待っておりますよ」の御催促(ごさいそく)。
 今日もご聴聞の道行さんがしかるべき座について、故林水月和上ではありませんが、 「本堂は仏さまの尊い因縁の法があまねく満ちわたる場なのですよ。
 ご聴聞して、縁(えにし)を結ばれ契り合ったものどうしが、 『ああ、親子でよかった、夫婦でよかった。ヨカッタ、ヨカッタ』と喜ばせてもらうのです。」 などと、お育てをいただくのです。

 ところで、このわたくしのお浄土での座は?ありますとも。 いわれから言えば、仏さまの十劫(じっこう)の昔(いにしえ)から、 その座は設(しつら)えられ調(ととの)えられてあるのです。
わたしの帰りをひたすら待ち続けている蓮華の座。

 それを支えているものは、……阿弥陀さまの大きな願いです。

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