花ひらく春

浄宝寺 諏訪了我

(茉莉花vol.7/1992年春号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 今年の春広島平和公園の桜は、例年通り美しく咲くだろうか。昨年の台風十九号の塩害の影響で咲かないのではなかろうか。平和公園の近くに住む私は、何となく心配で、二月の初旬、遠くからは枯れ木のように見える桜の木の近くに寄って、幹から枝へと目を凝らして見つめました。
枝には例年のように、蕾となるであろう膨らみを確かに見ることができ、ホットしました。

 寒い冬を経て、草木が芽吹き、花を咲かせる春は、生命の息吹きとその不思議さを感じさせる季節です。この大いなる自然の廻(めぐ)りのなかに生かされている一つひとつの生命の尊厳性を明らかにして下さったのが、二千五百年余り前の春四月八日、北インドのルンビニーの園でご誕生になったお釈迦様です。

 お釈迦様は、悩み苦しみながら生きている私たちに、真実の幸せを得る道として「ナモアミダブツ」のお念仏のこころをお説き下さいました。「ナモアミダブツ」とは、もともとインドの言葉で、「南無阿弥陀仏」は中国で音訳されたものです。

 「アミダブツ」とは「量ることのできをいいのち(無量寿)と量ることのできないひかり(無量光)を体として、その徳をすべてのものに得させようとはたらいておられる仏さま」という意味で、「ナモ」には「すなおにしたがいなさい」という意味と「すなおにしたがいます」という意味があります。
「アミダブツ」の方から言えば「すなおにしたがいなさい」というおおせであり、私の方から言いますと「すなおにしたがいます」と信じしたがうこころです。

 親鶯聖人は「ナモアミダブツ」のこころを「自然法雨(じれんほうに)」とお示し下さいました。
これは人為的なはからいを超えて「ナモアミダブツ」の自然のはたらきに安んじしたがって、自我に執われた主体ではなく、真実の主体をめぐまれて生きる他力のこころです。

 永い間自我に執われ、真実に背を向けてきた私の歴史を通して、常に私を照らし護り育てて下さった「ナモアミダブツ」の自然のはたらきによって、今その機が熟して、私の心と口に「ナモアミダブツ」のお念仏の花が開いたのです。
大いなる自然の廻りを通して、春が来ればその陽気にもようされて、草木が芽を吹き、花を咲かせるように。

お寺の季刊寺報としてご利用できます。

TOP