「み教え」に通じる「道」…「聞法」

妙声寺 藤澤桂珠

(茉莉花vol.5/1991年秋号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 「茉莉花」の編集方針は、「み教え」を解りやすく伝えることだそうです。私も大いに同感です。
さて真宗は「聞法の宗教」と申します。何代も何代も昔から私達の祖先は、家族で揃い、友人知人も誘い合って聞法(仏法を聞くこと)されたわけです。
しかし時代は一変し、今では20代30代の人達のそうした姿がとても少なくなりました。私達の生活が次々と変わってきて、目が外に向き、物の方に心が引き寄せられてしまう傾向にあるようです。人間の生命そのもの、あるいは人生そのものを本当にかみしめて、その大切さ、尊さを受け取ることがむつかしくなってきたようでもあります。

 私どもの宗祖親鸞聖人は、こうした、家庭を持ち、仕事を持ち、日々一生懸命過ごしている私達のために、ともに泣き、ともに悲しみ、ともに悩み、ともに苦しんでくださる、阿弥陀如来という「み仏」のあることを教えてくださいました。

 世の中は変わったと申しましても、人間そのものの生きざまが変わったのでしょうか。いえそうではないはずです。昔の人達も今の私達も「慾深く」、「喧嘩早く」、「患痴っぽい」「ところは同じことでしょうし、それはまた、アメリカ人でも、フランス人でも、皆同様でしょう。にもかかわらず私達地球上のすべての人間は、生まれて来た以上、どうしても老いて死んでいかねばならない小さな存在です。

 寂しく悲しいことかもしれませんが、そのような私達の姿を見透してくださり、そのような私達の「いのち」のすべてを受け入れ、護ってくださるのが阿弥陀如来さまで、そのやさしさに包まれ、おかげで生かされているのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。

仏典の中に、「真実は如来なり、如来は真実なり、真実は虚空なり、虚空は真実なり」(涅槃経)とあります。

 虚空とは大空のことです。夜空の星は「キラキラキラ」と輝く一等星も、「キラ」としか輝けない三等星も、分け隔てなく包み入れている大空を、今夜仰いでみましょう。み仏さまの心もあの虚空(おおぞら)のように、すべての「いのち」を、「いのち」のままに摂め取って捨てず、生かしきってくださる……という親鸞聖人のみ教えが光り輝いて見えるはずです。

 じつは、この「大丈夫……安心しなさい」の力強い「おみのり」を聞かせていただくこと、つまりお寺に通って行う聞法が、真宗のみ教えそのものに通じる道なのです。

季刊誌「茉莉花」
家族で楽しめます。

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