同じいのちとして…

相愛大学学長 西光寺 中西智海

(茉莉花vol.12/1993年夏号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 (夏〉には人それぞれの感慨があるでしょう。 青春の情熱を想う人もあれば大自然の中のいのちを見つめ直す人もありましょう。 しかし、私はやはり〈夏〉になると広島・長崎の原爆を思い、 この世の有様を思わずにはいられないのであります。

 つまり〈いのち〉、そしてその〈生きざま〉を問わずにはおられないのです。

 ところでカンボジアで活動中の国連ボランティア、 中田厚仁さんが射殺された事件は、何とも複雑な気持ちでそのニュースを受けとめました。 それにしても、最愛の子を失ったご両親の記者会見以後の言動に私は頭の下がる思いです。

 中田さんの父武仁さんは、追悼式に寄せられた香典を全額、国連ボランティア計画(UNV)に提供されたそうです。 そして武仁さんは四月末に勤め先の商社を退職し、 「息子の遺志を継いで」ボランティア活動に専念されることになったのです。

 一般には、「遺志を継ぐ」といった場合は、親の遺志を子が継ぐとか、師の遺志を弟子が継ぐといいますが、 中田さんの場合は息子のボランティア精神を父が継ぐといわれるのであります。

 そして「国連ボランティアの中には援助を受ける側の途上国の人もいる。 衣食足って礼節を知るというが、足りなくても参加している。 人の痛みを自分の痛みとすることが日常的に行われるようになれば…」と語られているのです。

 ここには、上から下の同情論でもなければ、富める者と貧困な者との対応でもない、 同じ〈いのち〉として同じに生きる、 そして、人の痛みを自分の痛みとすることを日常的に営める道を歩みたいという、 まさにみ仏の教えで説かれる慈悲のこころの実践が告げられているといえるでしょう。

 このようなことを書くと、われわれ凡夫には、とてもそのようなことはできないという声が聞こえてくるようですが、 凡夫であればこそ、すなわち不完全なものであればこそ、拝む手の中で、み仏にうなずきつつ、 まねごとなりとも行いたいものであります。

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