共命の鳥

浄土真宗本願寺派広島別院 高橋廣爾

(茉莉花vol.18/1995年新年号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 故郷の「郷」の字は、食物を盛った器をはさんで二人が向かい合っているさまを表す象形文字だといわれています。故郷には、お互いの顔を見つめ合う人間の生活の一番深い基本があるということでしょう。
 ところが、現在は、お互いに見つめ合う、まなざしを向けるという一番大切なものが崩れてきているのではないでしょうか。

山口県の漁村仙崎に生まれた金子みすずは、

朝やけこやけだ大漁だ
大ばいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしのとむらいするだろう。

 とうたいました。朝やけの浜には大漁旗がなびき、祭りのような賑わいです。しかし、詩人のまなざしは、海の底で仲間を失って悲しみに涙している魚たちにそそがれています。

 アミダさまの四十八の願いの五番目に「宿命通の願」があります。「宿された命に気づく人間にしてあげたい」という願いです。

 ”母ありき/その母ありき/父ありき/その父ありき/その父母ありき”-鹿児島寿蔵-アララギの歌人の作品です。

 私の「いのち」には、親たちの始めもわからない「いのち」の歴史が宿っています。同時にたくさんの他のいのちに支えられています。この深い「いのち」のつながりにめざめたとき「共に生きる」という「いのちの場」がひろがっていきます。

 阿弥陀経に「共命鳥」という胴が一つで頭が二つある鳥がいることが説かれています。「ひとつの命を共に生きている。もし、そのことに気づかないで、二つの頭が争い合うと共に命を失ってしまうよ。ひとつの命を共に生きていることにめざめなさい。」共命の鳥は、今もお浄土から、私にそう呼びかけているのです。

 すべての命あるものへ向けてくださっているアミダさまのまなざしは、声のすがたとして現われ「ナンマンダ仏」と聞こえます。

お寺の季刊寺報としてご利用できます。

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