出遇い

龍谷大学学長 教圓寺 信楽峻麿

(茉莉花vol.10/1993年新年号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 この『茉莉花』の編集者からいただいたテーマは「出遇い」であった。
 「出会い」でもなく「出逢い」でもない。
「出会い」の場合は、諸方から多くの人々が寄りあつまることをいい、「出逢い」とは、両者が進んで向かいあうことで、たとえば恋人同士があうことをいう。
ところが「出遇い」とは、遇とは偶にかさなって、偶然に、期せずして不思議にあうことをいう。編集者の意図と、その心の深さを思ったことである。

 今日までの私の人生をふりかえっても、幾たびかの不思議な出遇いがあった。それらは人生の旅路の中の一駒というよりも、私の人生そのものであったといいうるようである。

 あの戦争の悲劇の中で、また大学生活において、そしてその後の京都在住の日々において、さらには海外における研究生活の中で、実に多くの出遇いに恵まれた。それらのほとんどが現在の私の人生を形成しているというほかはない。

 ひそかにかえりみて、もしもそれらの一つでも無かったとしたら、今日の私は存在していないのではないかとさえ思う。 その意味では、私の人生は、私自身が独りして作ったものではなく、それらの出遇いにおいて、その人々によって作っていただいたとしかいいようがない。
まことに恵まれた人生、たまわりた現在というほかはない。

 親鸞の教えに「自然法爾」(じねんほうに)という言葉がある。
親鸞はその「自然」の語を解釈して、「自はおのづからという、然というはしからしむという」といっている。 「自」は普通には「みづから」と読むが、ここではあえて「おのづから」と読んでいる。
それは私を超えたところの世界の根本原理――仏の働きを指しているように思われる。
そして「然」も「しかる」と読むべきなのに、あえて「しからしむ」というのである。「しむ」とは使役の助動詞で、そのように為さしめられたということを意味する。

 次の「法爾」という語も、「法――根本原理によってしからしむる」ということで、同じくそのことを表している。

 私は今わが人生をかえりみて、しみじみとこの「自然法爾」の教言を思わずにはいられない。

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