徳正寺 竹内洞達
(茉莉花vol.8/1992年夏号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
清風宝樹(せいふうほうじゅ)をふくときは
いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり
清浄薫(しょうじょうくん)を礼(らい)すべし
(浄土和讃)
親鸞聖人は、無始より今日ただいまにいたるまで、無常流転を繰り返し、我執の熱風の吹きすさぶわが身をなげかれました。
しかし、こういう私の為に、阿弥陀如来は計り知れないご苦労の末、そのまことをもって自ら南無阿弥陀仏の尊号となって、すべての迷える者の血となり肉となって常にはたらいて下さっているおいわれを述べておられます。
まさに、如来さまの大悲の清風が、我執の熱風に吹きまくられている凡夫の心を安らがせて下さるのです。
このところを「……本願のみ船に乗せられて、光明摂取の海に浮かべば無常の功徳の風が静かに来たって、よろずのわざわいの波は転ずる。すなわち、迷いの闇を破って、はかりない光明の浄土にいたり、速やかに仏のさとりを開いて、衆生済度をさせていただけるのである。よく知るがよい。」とおっしゃいました。
私の親戚にあたるM子は、和裁ができませんでした。それでもやがて、婚約も整い結婚することになったのです。M子は、結婚までの短い期間に祖母から和裁を習い始めたのです。
そこで私はM子に尋ねました。
「M子さん、あなたは自分が和裁ができないことを承知してもらって結婚することを決めただろうに、何を今更習い始めたの。」
するとM子は、こう答えました。
「はい、女の身でありながら和裁もできない粗末のままの私を承知の上で結納まで下さった先方のお心を思えば、せめて浴衣ぐらいは縫える身になろうと思い立ったのです。」
蓮の実が泥中におりて根を下ろし、芽を吹かせ、幹を伸ばし、花を咲かせ、その花の中に実を宿します。
まことに「泥の中誰の仕わざか蓮の花」「蓮の実やまだ花びらの散らぬ間に」であります。
いつのまにやら清風吹いて、M子の心に蓮の花が咲いていたのです。
その花の中にもきっと実が宿っています。
これから新しい人生に旅立つM子に、私は心の中でそっと掌を合わせたことでした。