夾竹桃に導かれる夏の日

正覚寺 清胤徹昭

(茉莉花vol.4/1991年夏号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 夾竹桃の花が咲き乱れ、暑い夏がまたやって来ました。15歳で被爆して以来、この花は、私には特別な意味を持つ花になりました。 あの日もこの花は咲き乱れていました。 そして、廃虚のなかで一番先にさいたのもこの花でした。私には、この花の一つ一つは、亡くなられた方々が大切なことを語りかけている姿に思えてなりません。
今年もまた、たくさんの人々が夾竹桃の咲き乱れる平和公園を訪れられ、あの碑文の前に、そろってぬかずかれるにちがいありませんが…。

 私たちは、故人に対し、碑文にあるように「安らかに眠って下さい」というのが一番ふさわしいように思っています。
しかし、イギリスの平和運動家フィリップ・ノエルべーカーさんは、次のように示しています。

「平和を誓う石棺に刻める文字あり-安らかに眠って下さい 過ちはふたたび繰返しませぬから-と。ああ、ヒバクシャよ、逝ける人よ。あなたは眠ってはいけないのだ。人々よ起ち上がれ。起ち上がって鐘を打て。強く打て、そして叫べ声高く。武器を捨てよ、核を捨てよと、世界の人々が目覚めるまで」

「平和を誓う石棺に刻める文字あり-安らかに眠って下さい 過ちはふたたび繰返しませぬから-と。ああ、ヒバクシャよ、逝ける人よ。あなたは眠ってはいけないのだ。人々よ起ち上がれ。起ち上がって鐘を打て。強く打て、そして叫べ声高く。武器を捨てよ、核を捨てよと、世界の人々が目覚めるまで」

 私たち念仏者の勤めもまた、故人を眠らせることで もなく、通り一ぺんの慰めをすることでもありません。
仏教の世界でいうと「還相の廻向」というのですが、浄土から還り来て自分を導いてくださるその人の願いに耳を傾け、その心を心として、まことなき世に、まことといえるものはなにか、それを見極めることが大切であると説きます。

 当然のことながら、自らの生のよりどころ、死の帰するところを明らかにし、不退転の身となって、力強く成仏道を生き抜くことが、私たち念仏者に与えられた正しい道でもあります。
私は、そうした念仏者のあり方こそが、故人に対してのなによりの供養となると信じています。もしかりに、私がいつまでも方向の定まらないようないい加減な生き方をしているとしたら、故人はいつまでも安らかになれないことになるでしょう。

 私は、夏になると、いつも夾竹桃の花に導かれる思いがあります。今は亡き原爆の犠牲者を偲びつつ、自問自答を繰り返します。お墓参りなどのお盆行事も単なる鎮魂や慰霊に終わらせていないだろうか?私自身の生きざまにまで問いを持たせていただけることは、この上なくありがたいことです。

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