起き上がり小法師

教法寺 鷹谷俊昭

(茉莉花vol.9/1992年秋号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 起き上がり小法師が倒れても起き上がるのは、底に重りがあり、また底が丸くなっているからです。 人生にも同じ様なことが言えそうです。
絶望しかけたときも、もう一度自分を見直して立ち上がろうと望みを持つことができるには、かねてから一生涯持ち続けることのできる、しっかりした重り、それは柱とも、支えともなる阿弥陀様の真実の信心をいただくことです。

 それはどんな苦難に出会っても絶望することなく生き抜こうとする力となるのです。
それには、すなおに仏法を聴聞する心、重ねて努めて真実を求め、触れて行こうとする姿勢が必要でしょう。これが底の丸みと言えるのだと思います。

 起き上がり小法師は倒れないような形にはできていません。また、倒れないように支えがあるのでもありません。倒れたらすぐに起こしてくれるものが側についているのでもありません。倒れても自分で起き上がれるようになっているのです。重りが、かたわらに置いてあるのではなく、体の一部になってしまっているからです。

 つらくて挫折しそうにあることは誰にでもあるのですがそれに負けるか、それとも生き抜く力を頂いていることに気づいて自分で起き上がり明るくまた第一歩を踏み出すかでは大違いです。

 この起き上がれる力が他力です。本願力です。

 そのおかげで、自分で活動できるようになるのです。 倒れるほどの苦悩に出会わねばよいとか、 どんな苦悩に出会っても倒れないように強くなればよいと思う人もいるでしょう。
多少それに近くなることがまれにあるかもしれませんが、どんな苦悩からも逃げ、 あるいは蹴飛ばしてしまえるようになろうと考えるのは、 立派そうに見えても結局はストレスのもとにすぎません。
そんな考えには耳を貸さないことです。
起き上がれるとは、人に起こしてもらうのではありません。

 自分で起き上がれるのに誰かに起こしてもらおうとするなら、それは自力であり、むしろ横着というべきです。それに本当に起こしに来てもらえるだろうか、起こせなかったらどうしようと新しい不安で悩んでしまいます。

 そうならないように、いまこそ仏縁を得てお聴聞し起き上がれる私になりたいものです。

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「日めくりカレンダー」
法語とイラストを掲載

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