超能力ブーム

広寂寺 武田達裕

(茉莉花vol.20/1995年夏号)
※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。

 現代は超能カブームであると言われています。書店にはそれに関する本があふれていますし、幼児のための超能力開発教室もつくられ、入気を博しているそうです。

 超能力が本当に存在するのかどうかは別として、このブームには何らかの問題があるように感じます。

 我々は、日常生活の中で、ふと、もっと違う世界があるのではないかと思うことかあります。そして、そういう世界に憧れをもちます。

 ところで、我々の日常は、本来、「我」を中心に世界を考え、「自分はまんざらではない」という思い上がった立場にありますので、自分の足元を忘れて。外にばかり何かを求めてゆく姿になってぃます。

 新しい世界もそうした立場から求めるので、他人に無いものを手に入れることによって、それか可能になると考えてしまうようです。

 次々に新しい発見の続く科学の進歩が、他人には無いものをという傾向に拍車をかけているのでしょう。けれど、そのような道は、人々を一層の不安にかりたて、いつのまにやら迷信だらけの世界に閉じこめているように見えます。

 親鸞聖入は、本当の新しい世界は、如来様の真実の働きによって、大きないのちに出会わされ、我にとらわれたあり方や、思い上がった姿に気付かされていくところに広がってくると言われます。その立場が恵まれると、本当の安心が得られ、「おかげ様」とか「有難う」とかいう世界が開かれてきます。

 先日、広島巾内のあるご住職が、交通事故で二十歳のご子息を失われました。
お通夜の挨拶の中で、そのご住職は、「今は、頭か混乱していて、何も考えられません。しかし、ただ一つ思うことは、あの子に会えて良かったということです」と言われました。

 このご挨拶を伺った時に、私は、自分か自分の子供に対して、「会えて良かった」という出会いのできる世界に生きているのだろうかと考えさせられました。「会えて良かった」というような視点は、大きな働きに会い、お互いのいのちに気付かされる中からでないと出てこないでしょう。「予供に超能力を」と考える親には見失われた視点です。

 このような、広大ないのちの世界に出会った方が、実は本当の「超」能力者なのではないかと、最近思っています。

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